少なくとも日本において、何もしない、ということは否定的に捉えられることが多い。
巷には時間を効率化することを謳う書籍があふれ、なにもせずに時間を過ごした人間は、会社、学校などで直接的あるいは間接的に糾弾されることが多い。
近代以降、国家が社会システムの基盤になった。
国家の生産性が組織と結びつき、組織の生産性が個人の時間の使い方に左右されるようになったため、なにもせず過ごすことが悪いことだという社会規範が一般的になるのは至極当然とも言える。
しかし一方で自由主義的観点から言うと、個人の時間の使い方は誰からも拘束されないべきだし、時間を自由に使えることは基本的人権として社会規範となっている。
この相反する社会規範が存在している現代社会でより優先されているのが、国家主義的な時間の使い方、というのが正しいかもしれない。
個人がどのように生きるかは人それぞれだが、個人のそれぞれの幸福を追求していくということを基本的な考えとすると、無為に時間を使うことに幸福を感じることに対して、自分から苦痛を感じるということは、幸福追求から遠ざかっているのではないか、ということをしばしば思う。
時間を無駄に使うことを恐れずどうどうとしていよう、こう言い聞かせて私は今日もバイクのドライブレコーダー動画をぼーと眺めるのだ。