金、土、日とつくばベンチャーバーベキュー出席のためつくばに滞在していました。
つくばベンチャーバーベキューは10年以上続いているイベントだが、コロナ禍は中止となり、去年から再開されたイベントだ。
コロナ前も偶に参加していたが、コロナ禍以降はオフラインで初対面の人とまとまった会話の時間が取れるという機会の有り難みをひしひしと感じる。
オフラインで初対面の人と話すとき、だいたい共通の知り合いの話題になるが、そのときにぱっと人名が出てこなかったり、思い出すのに時間がかかったりする。
そしてぱっと人名が出てこないと滑舌が悪くなったり、その後の会話のテンポが悪くなり、全体としての話もぐだぐだになりやすい。
また、相手の趣味や興味のあることから話題を作ることが多いため、できるだけ幅広いく深い教養がある方が話にも深みを出しやすい。
自分の持っていない知識を相手は持っているわけで、その相手の持っている知識をいかに引き出すか、という技能も要求される。 そのためのテクニックの一つとして傾聴も要求される。
会話の本質的な意味とは自分が持っていない情報を相手から得ることであり、少し話した段階でこの人と話しても新しい情報を得られることはないとみなされると、会話の機会損失となる(実際にはそのようなことはないので、それは相手の間違った認識なのだけど、実際そういう認識のもとで行動する人がいることは経験的に知っている)。
機会損失と書いたが実際には、会話はそのような機会損失といった一種の損得勘定ではなく、コミュニケーションを取ることで気持ちよくなりたいという、ある種本能的な欲求からくるはずだ。
ここで理想的な会話について考えてみる。
理想的な会話とは、自分が気持ちよくなりつつ相手も気持ちよくなり、かつ両者が有益な情報を得られることと定義してみる。
この理想的な会話を得るためには、話題が両者の興味を引くものでなければならない。
会話する内容が興味深いものだったりあるいはお笑いとして面白い、そういう状態をいかに作るかということ。
この話題を探すためのきっかけが自己紹介だったり趣味、ニュース、仕事の話だったりするわけだ。
趣味や趣向が近い場合はこの理想状態を作りやすいが、一方で共通項がみつけられず一方がつまらない思いをしてしまうことが往々にしてある。
営業的な観点でいうとこの場合避けなければならないのは、相手につまらない時間を過ごしたと思わせないことで、自分がつまらないと思うことを覚悟して相手に楽しんで貰う必要がある。 その場合、相手につまらない話をしていると思われないための振る舞いが必要になる。これは高等テクニックであるため出来るだけ避けたい。
結局のところ、自分が幅広い物事に興味を持って、日々教養を広く・深くしていくことこそがいちばん重要なのだ。
そういうことを強く実感した。
話は変わるが、つくばでは 15年ぶりくらいにらーめん山水、10年ぶりくらいに カレーうどんZEYOに行った。 らーめん山水は回数自体が少なかったせいか味を全く覚えていなかった。 カレーうどんZEYOは比較的記憶も新しく何回も行っていたので、記憶の味と寸分変わらなかった。 また、RanRanは数ヶ月前に忽然と閉店した。 私が学生時代に済んでいたボロアパートは取り壊された名前も変わって新しく建て替えられていた。 ウクライナで戦争はまだ続いているし、パレスチナ問題も再燃中、とここ数年大きな動乱が続いている。
諸行無常を強く感じるからこそこの刹那の重要を噛み締めたし、こういう刹那を大切にしていきたい。
そういうことを強く感じた旅程でした。